もとやま522.0m(三角点:元山 521.96m) ささやま611m HIGURASIYAMA→世を挙って之を誉むれども、勧むることを加えず。世を挙って之を非れども、沮むことを加えず。→世間中がこぞってって自分をほめたからといって、それで大いにはげみ勇んで仕事をすることもない。反対に、世をあげて自分をけなしても、そのために、意気がくじけるかといえば、そういうこともない。つまり、かれは、世の毀誉褒貶について心を動かさなかった。
ヒバ林が二次林に変った豊部内源流域の山

2007.05.12(土)→函館(4:00)→登山口Co235m(5:55)→元山(6:30-6:35)→笹山(7:30-7:35)→登山口(8:12)(kash沿距5.3km+590m-591m 時間2:03)】

三角点:点名 元山 等級 三等三角点 地形図 函館−江差 WGS84緯度 41°52′6″.6702経度 140°11′49″.3646標高 521.96m 平面直角座標系(X) -236764.258m(Y) -4395.883m 所在地 江差町大字泊村1659-3/字東山709-1点の記図 [表示] [選点明治45年4月18日観測明治45年7月10日更新昭和51年1月9日] AY00043S:J1UpXp】


元山は三角点のある山で円錐形の端正な山である。その南に、ピークを二つ挟んで稲荷神社の笹山がある。さらに南に連山の盟主、一等三角点の八幡岳がある。元山は特異な山で、江差の束風をまともに受ける風衝地で、500mをチョット出る山の高さながらハイマツ−コケモモ群集の組成種コケモモの群生が見られる(風衝草原とでも言いたくなる相観である)。
また弱湿性〜湿性土壌に出てくるムラサキケマン、エゾエンゴサク、オオバキスミレやオオサクラソウなどが元山と笹山をつなぐ尾根路にたくさん見られるから興味深い現象だ。道南の低山で花の数を見られる山としては第一級の山だ。

コースの地質:豊部内川に沿う豊川町の集落のはずれから古生代松前層群域に入る。元山、笹山、八幡岳の3座の並びは、厚沢部川と天の川を挟む領域に露出する古生代松前層群の西縁にあり、同群のチャート層の向斜軸が元山、笹山、八幡岳の連山をつないでいる。】
 

←@ 元山登山道入口:登山口は江差町市街の豊川町を河口とする、豊部内川の上流にある。元山登山口の看板の背景をなすミズナラ、シナノキ、イタヤカエデを主とする広葉樹二次林の中に、黒っぽく発見できる針葉樹は、自生種のヒノキアスナロであった。ヒノキアスナロの生育地は、登山道に沿う幅の狭い尾根上で、右側が沢に落ち込む急斜面であった。周辺一帯は、広葉樹二次林の他に植林地(トドマツ、スギ、カラマツ、・・・)が大部分であった。

←A 笹山風景林歩道案内板:白抜き部分は民有林、ピンクと薄緑部分は国有林で、左の黄色の楕円の囲みが風力発電の場所である。元山、笹山、八幡岳の並びがよく分かる。ブナ林が覆うの八幡岳、広葉樹二次林の笹山、丘陵地帯に出張っている元山は、タバ風にもろにさらされる位置にあり草原状を呈する円錐の山である。

←B よく整備された登山道は花街道。一般山地に比して花の多い山道だった。オオバキスミレ、エゾエンゴサク、ミゾホオズキ、オオサクラソウも見られた。これらの種は、元山と笹山を結ぶ歩道上に生えていたが、ここはいわゆる稜線(?)、その立地にチョット驚く。本来は谷壁や山脚、川沿い付近を賑わす植物たちだからである。植物の生育立地は、地形、土壌、植生、地質、気象、時間等の環境によって決定される。元山〜笹山ルートの立地環境は如何に?。多雪、残雪、強風・・・・。



←C チャートが露出する元山頂上に立つ:元山はチャートブロックの背斜軸の上にある。断層によってそのチャートブロックを東にズラした背斜軸の上に笹山を載せている。さらに同じく、東にズラしたチャートブロックの背斜軸の上に八幡岳がある。写真は元山山頂に露出する古生代とされるチャートの周りは、ハイマツーコケモモ群集の構成種のコケモモが高い優占度で見られた。植生からみれば、ここはハイマツ地帯、亜高山帯〜高山帯に相当する。

 ガスの中で、展望は眼下にあるはずの風力発電の風車すら見えなかった。三等三角点で記録写真をパチリとやって、そそくさと笹山に向った。写真に写る青シャツは同行のH氏。






←D 笹山からの帰路:小川の湿った谷壁に生えるオオサクラソウ。




←E 御料林の境界標石:「御影石に彫られた文字は、宮(ウ冠を、○とそのてっぺんに点で表し、呂を8の字で表したデザインだ)」。標石は、豊部内流域の山林が、戦前は御料林だったことを物語っている。




←F ヒノキアスナロの少林:登山路沿いに、昔の面影をチョットだけ残したヒノキアスナロの小さな林があった。


 G豊部内川源流の山林の来歴:松前藩は、伐採などですっかり疲弊したヒバ林を保護するために留山制度(伐採制限)を定めた(18世紀中頃)。特に厳しく伐採を制限した七箇所を「御山七山」と称して、保護に努めた。上ノ国目名山、戸渡川山、古櫃山、豊部内山、田沢山、厚沢部目名山、羽板内山の七つであった。今も国有林が管理するヒノキアスナロの森として知られているが、「豊部内山」だけは別である。登山して分かるが、今はその面影は全くない。何故か?。

 松前藩直轄の留山→ 御料林→ 国有林→ 江差町有林と、その所有形態が移されてきた。敗戦後、江差町有林移ってからは、江戸時代から永く続いたヒバ林に対する森林施業が、突然途絶えてしまったからである。
 豊部内川流域の町有林に、戦後、いわゆる林種転換、拡大造林、皆伐施業、人工林化などの林業政策の大転換の一端を見る思いであった。

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