. | だいてんぐやま 〈点名 大天狗 851.63 m〉 | OOTENGUYAMA→世を挙って之を誉むれども、勧むることを加えず。世を挙って之を非れども、沮むことを加えず。→世間中がこぞってって自分をほめたからといって、それで大いにはげみ勇んで仕事をすることもない。反対に、世をあげて自分をけなしても、そのために、意気がくじけるかといえば、そういうこともない。つまり、かれは、世の毀誉褒貶について心を動かさなかった。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
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【行程】2008.03.09(日)→神恵内村の北端ノット川とオブカルイシ川の間の「あんない展望公園」(オブカイシ駐車場・西の河原トンネルから南へ820m)発(8:00)→急斜面上の台地Co250m(8:45)→Co300m(9:00)→・435m(9:30)→Co550m(10:25)→・688m(10:30)→Co750m(11:00)→頂▲851.6m(11:30-40)→Co750m(11:50-12:00)→駐車場着(13:35) 【三角点】点名 大天狗 等級 二等三角点 地形図 岩内−余別 緯度 43°15′01.2999 経度 140°22′00.8072 標高 851.63 m 11(X) -83273.614 m (Y) 9491.657 m 現況状態 報告なし 【大天狗山】は、神恵内村の窓岩付近に西流するノット川・オブカルイシ川、積丹町に北流する尾根内川・余別川源流にあって、両町村の界を成す二等三角点が設置された山です。「渡島半島は何処から?」と聞くと、道央の人は「黒松内から南」と返ってきます。地形・地質学の人は「石狩低地帯以南」としているようです。開拓時代の生活圏を考えてみると、陸の孤島があったりして人の往来が困難だった積丹半島(1970年頃も川白〜尾根内の10km間は断崖絶壁で陸上通行不能))から〜亜高山帯が続く無意根山から〜オロフレ山〜クッタラ湖への山稜は、大河川の石狩川流域側と尻別川流域側の界も加わって、札幌圏と函館圏の界を成して交通の難所として立ちはだかっていたのではないだろうか。人口的にも経済的にも今より吸引力の高かった函館圏を考えると、積丹から続くこの山稜は、当時の人々におおいに意識されていたのではないだろうか・・・と考えて見たくもなります。前触れが長くなったが、大天狗山を函館圏の最北端の山と言いたい誘惑に駆られてしまいました。大天狗山は、函館から如何にも遠い山でした。「古い地質図の大天狗山にローマ字で”OhTenguyama”のルビがあった。山の名前には先取権がないようなので・・・。参考までに記しておく。」 【コースの地質】海沿いの国道から傾斜が35°もある急な崖(海食崖)を這い上がって、おおむね緩斜面状の幅広い尾根を大天狗山に向って進みました。ルート上には、ノット川とオブカルイ川の両河川をつないで、尾根ルートを横断する登り返しの凹状地が三ヶ所(333m、423m、623m)現れました。地形図で拾いきれないほど錯綜した沢模様を呈していましたから、同行者は頻繁に地形図とGPSを出すことになりました。緩斜面を過ぎると、コース最後の山頂への急崖が目の前に屏風のように立ちはだかっていました。ルート工作は慎重に、かつ一気に登って定高の尾根に出たあとは、北に歩いて程なく大天狗山に立てました。海から海食崖でなる長大な急斜面は中新世前期の緑色凝灰岩類で、展望台あたりがもろい浸食されやすい岩相でした。崖の上の方は、無雪期に水冷破砕岩の落石が絶えない様子で、岩石がぶつかって樹皮剥離をおこしていた樹木がありました。そこいらを見渡すと岩石に痛めつけられている樹木が目立ってありました。続いて標高250mから標高750mまでは、ゴタゴタとした長い長いルートを歩きました。更新世後期に起こったとされる地すべり地形の上を歩いていたことになります。ゴタゴタ地形はそのはずですが、神恵内村の山地はこの種の地すべり地形があちこちにたくさんあります。川白地すべり(オブカルイシ、ノット、オネナイの流域にわたって幅3km、長さ4kmの広がりを持つ)は、神恵内村で規模の最も大きな地すべり地域のようです。最後の急登のアーチ上の壁は、圏谷状の壁にも似て、地すべりの滑落崖でした。雪崩の構造で言えば「破断面」にあたります。この度の山行で、各人各様のルートが地形図上に描かれていましたが、この滑落崖の何処にルートを見いだすか・・・ルートどりが課題でした。この度は、壁を登ってほぼ806mのコルに飛び出しました。珊内岳から伸びていた定高の尾根は、更新世前期の積丹岳溶岩域の西縁になっていました。 【森林】ルート上のCo500m付近から上部は国有林の管理になっています。その下部はおおむね民有林になっていました。地滑り地形は、滑って流れて落ち着いた地形ですから、当然だが斜面はおおむね緩やかなわけです。緩斜面、そして生活域に近ければ、いきおい森林は利用しやすくなります。陸の孤島だったこのあたりでは、森林資源に依存していた生活がいつ頃まであったのか分からりませんが、海岸から若い林が続いていました。樹齢はほぼ40年生から70年生前後と思われました。いわゆる二次林です。海風の直接あたる急斜面は、斜面下部の前線にオニグルミが目立って生えていました。斜面のほとんどはエゾイタヤの純林といっていい様子でした。急斜面を過ぎてから緩斜面に至ると、例に違わずイタヤカエデ、シナノキ、ミズナラの3種を主とするが構成でした。その中でも乾きぎみの斜面にシナノキが、適潤から弱湿性の斜面にイタヤカエデが割合を高くして生えていたようです。ミズナラはかなり少なように見えました。一般山地と違って、300mを越えると早くもダケカンバがかなり混じってきました。この現象は、全体に新しい林、そして強い風当たりの厳しい環境の影響を受けているからでしょうか。高標高の国有林域に入ると、立木密度は確かに高くなりましたが、依然として若い林が目立って続いていました。胸高直径が30cm超の立木はほどんど目に出来ませんでした。何故だろうか・・・?。500mを越すと、風衝地には樹高の低いシナノキ林が発達していました。密度の高いトドマツの自然林が、オブカルイシ川やノット川の谷底から中腹にかけてその広がりが見えてきました。カールの底のような700m台の緩やかな斜面に立つと、その周囲はダケカンバの二次林が発達していました。ほぼ胸高直径が16cm程度でした。人里離れているから地利的にはとても人為的な二次林とは考えにくいのですが・・・若い二次林の成因は分かりませんでした(西の川原鉱山は1930〜1960まで採掘:一般に鉱山は大量の森林資源を消費)。地すべりの滑落崖は、さすがに雪崩の影響を受けるからか、ダケカンバの疎林がほとんどでした。雪崩荒地植生に分類されるであろう根元から曲がった低木しか生えていない斜面が、モザイク的に配置されていました。崖を緊張して定高の尾根に上がると、強風に抗して生きるダケカンバ、ミヤマハンノキ、ナナカマド、ミネザクラ等の低木林がありました。Co500mを越えるころから常にミネザクラやミネカエデが生えてきました。これも一般山地と異なる低位からの森林の出現のしかたでした。厳しい風と森林の出現のしかた?その関わりは、ナカナカ一般化は難しいのですが。
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